2012年3月27日火曜日

CITI

こっちで臨床研究に従事しようと思ったら、CITIに登録しなければいけないとのこと。


https://www.citiprogram.org/Default.asp?

オンラインラーニングで1時間以上はしないといけない様子。

「しておいてね」と言われたが、それなりに勉強しないといけない。


とまあ、ようやく臨床研究の入口に立てたわけだから、まず第一歩です。

2012年3月16日金曜日

about case report

Boss said


- You should finish one case report within four hours at a on-call day, otherwise you are useless


厳しい言葉ですが、それが求められています。

2012年3月7日水曜日

ある友人の想い出

大親友が書いた「クリスマスイブの想い出」

埋もれさせるのはあまりに惜しいお話なのでこちらで許可をいただいて紹介させていただきます。





研修医の先生方へ。

みなさんの研修期間に、一つでもいいからこういう想い出を持って下さい。一生の宝物になります。

私にも、あります。いつか話せる日がくればその時に。

時間は思っている以上に短いものです。大切に過ごしてください。



************************************


みなさん、素敵なクリスマスイブを過ごされていらっしゃいますか?

ところで、みなさんの思い出に残るクリスマスイブってどんなイブだったんでしょうか。
恋人や愛する人と過ごした夜。
家族と過ごす暖かい夜
たくさんのプレゼントに囲まれていた小さい頃の思い出・・・。

私の最も思いで深いイブの夜は、もう10年以上も昔、医者になって初めて迎えるクリスマス・イブの日でした。
その年の秋、私はとある都立病院の産婦人科で臨床研修医として仕事をしていました。
産婦人科は学生の時からちょっと特殊な印象を感じて特に好きになれませんでした。
それは、ほとんどの患者さんが病気ではなく、一生に一度か二度(もちろん、何度もある女性もいらっしゃれば、一度もない女性もいらっしゃいますが)の一大イベントのために来られています。
ですから、出産の時にデキの悪い私がまごついていると、
「何やっているのよ!!」
「先生、そうじゃないわよ!!」
と看護師や助産師さんからだけでなく、時には妊婦さんからダメ出しや怒声を浴びせられ、本当に冷や汗ばかりかいている研修でした。

また、他の科であれば、患者さんのベッドサイドにいて話を聞いたり、検査結果などから治療方針を検討したりするのですが、特に産科の患者さんは、たいていは出産やその後の授乳などの疲れから、患者(妊婦)さんは、お休みになっていたり、ご家族で過ごされていることが多く、訪問しても話もロクに聞くことが出来ずに、手持ちぶさたになってしまう時間も多くて、今更ながらですが、かなり苦痛を感じることも多かったのでした。

そんなある日、指導医から、80歳の女性の主治医になるように言われました。
その女性の名を「とみさん」とでもしましょう。

とみさんは進行した子宮頚癌の患者さんでした。
結婚歴もなく家族ももう50年近くも会っていないという妹さんが1人いるだけでした。
東証1部上場企業の社長、そしてその方が会長になられた後も秘書を74歳まで務められ、その後は唯一の趣味である写真を楽しみながら、自由な日々を送っておりました。

その2年ほど前に子宮癌が見つかり、きちんと告知を受け進行している状況を知ると、自ら積極的な治療を選択しませんでした。その後は、貧血傾向になると2週間ほど入院し、点滴治療や輸血を受けて退院していくような状況でした。

病棟に行くと、看護師さんから、
「とみさん、ものすごい変わっている人よ。覚悟して会ってこないといけないよ!!」
と言われました。
看護師に対して、目上に対する挨拶の仕方、物の置き方など、作法がなっていなければ、厳しく注意する、非常に堅気な女性だったのです。

さっそく、私はとみさんに会いにお部屋に行きました。
輸血が必要なくらいの貧血なのに、半袖のTシャツを着て、自分の家から持ってきたぞうきんで、ベッド柵やその横にある棚をぴかぴかに拭いているのでした。
「あら、あなた新しい先生なの?」
「いつもS先生ばかりでつまらなかったから良かったわ。ちょっと、あなたも椅子に座ってお話ししていきなさいよ!!」
と言って、面会者用の椅子を自分で運んできてくれました。

その時に何を話したか覚えていません。
でも、唯一覚えているのが、「どうも、今回ばかりは、私、家に帰れないような気がするの。だから一番の宝物であるこのカメラを持ってきたのよ。」
と言って、突然自慢のカメラで私のことをパシャパシャ取り出したのでした。

その後、相変わらず女性スタッフに対しては厳しい毒を吐くとみさんも、私が訪室すると本当に喜んでくれて、勝手に外出してはお鮨やケーキなどの差し入れを私に買ってきてくれるのでした。

ところが、入院も1ヵ月半を過ぎたあたりから、食事の量が目に見えて減ってきたり、私の回診時や訪室時も、以前はベッドや椅子に座っていたのに、ベッドで寝ていることが多くなってきました。

そして12月に入ったのある朝、突然、「今週の日曜日に、私と一緒に外出して、美味しいものを食べに連れて行ってくれないかしら・・・」とお願いされたのです。
患者さんと2人で外出するのは、かなりまずいよなぁと思い、つい返事に窮していると、
「私、S先生に外出届出して許可頂いたわよ。藤本先生と病院の周りを散歩するためって言ってあるから大丈夫よ!!」
というではありませんか・・・。

前日の夜、回診の際に、とみさんがお鮨を食べたい、と言ったので、私は仕事をし始めてほとんど着ることのなかったスーツを着込んで、大学時代の恩師に以前連れて行ってもらった、決して高級なお店ではないけれど、親しみのあるお鮨屋さんに、とみさんを連れて行くことにしました。

既に自分でタクシーから降りることも出来なくなっていたとみさん、抱きかかえて降ろしてあげたときに、あまりにも身体が軽くて、胸が締めつけられました。
しかし、手を引いてあげてカウンターに座ると、この2,3週間、食事が取れなかったことが嘘ではないか、と思えるくらいにたくさん食べてくれました。
板さんも、さりげなく、とみさんが食べやすいように小さめにお鮨を握ってくれて、本当に嬉しそうに食べてくれました。

ふと、




「あなたね、靴だけにはお金をかけなさい。本物の革の靴を履きなさい。
靴を見ればだいたいその人のことが分かる。本物のエグゼクティブは、スーツなんか見ていない、靴で相手を判断しているよ。これが、あなたに送る私からの最後の言葉ね。」


私たちの言葉のやりとりから、全ての事態を把握していた鮨屋の女将さんは、人目もはばからず泣いていました。
とみさんも、涙が頬をつたっていました。
私もカウンターのお料理が涙でかすんで見ることができませんでした。

翌月曜日、私が訪室しても、とみさんはもう頷く事くらいしか出来ないくらいまで衰えていました。

12月23日当直中の私は何度も診察の合間にとみさんのお部屋を訪室しました。呼吸が苦しそうだったので、酸素をしてもらうように看護師さんにお願いをしました。
そのためか、12月24日朝、当直明け、とみさんは目は開けていなかったけれど、モニター上の血中酸素飽和度も100%を示し、顔色もとてもよく見えました。

これなら、今日1日は乗り切ってくれるだろうと思った私は、お付き合いしていた女性とクリスマス・イヴを過ごすために、病院をあとにしました。
しかし、夜になり、楽しいはずのイヴが、何となく胸騒ぎがして、全然楽しめなくなってしまいました。

思い立って、私はタクシーで病院に戻りました。
病院に着いたのは、イブが終わるあと5分ほど前でした。
とみさんのお部屋に行くと、すでにとみさんはきれいにしてもらっていた後でした。
朝最期に会った時と同じように、顔色も良くすっきりとした笑顔でした。

「亡くなる直前のラウンドで、とみさん、先生の名前言っていたよ。」
と夜勤の看護師に言われた時に、私は人目をはばからず涙が止まりませんでした。
最期を看取ってあげることの出来なかったことを、本当に後悔しました。
あの日曜日に、力を振り絞って一緒に外出してくれて、あんな素敵な言葉を頂いたのに、なんで今日一日をとみさんのために使ってあげることができなかったのか。

月日が流れて10数年が経った今も、クリスマスイブは、私にとって決して甘い日ではなく、胸がギュッと締められるような、そんな日なのです。

あと1時間ちょっとで、イブも終わりですね。
素敵なイブ、そしてクリスマスをお過ごし下さい。

長いお話しにお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。

おやすみなさい。


***********************************



杉田フレーム

何と良く出来たフレームなのだろう。

あらゆる可能性を無限に持っている。

21世紀に入っても使用され続け、Navigation時代に突入してもなおその応用可能なFlexibility。

頭部固定器の完成型なんでしょうか。

やはり美しいフォルムを持ったものは永続性が違いますね。