2011年5月29日日曜日

同僚の言葉

経過の難しいPtを前に一言つぶやいた。


「僕が今ほしいのは2つ。Dr. GoogleとDr. Houseだ」


その通りかもしれない。

go forward

go forward

2011年5月26日木曜日

原子力発電事故

海外にいる日本人同士で「原発」の本当の話をよくします。

これを国内にいる日本人に話すと

「じゃあどうすればいいんだよ」と逆切れされると仰っておられました。

ようやく事実が少しずつですが、現実味を帯びて出てきた感があります。

「人のうわさも75日」

政治家は日本人の特性である上記を多分に利用しているように感じます。

3月11日の事故から75日後に何が報道されたでしょうか。

「実は炉心融解が起こっていた」5月の報道です。

3月11日から75日後は、5月24日です。


75日経てば(大体一季節)日本人はさらりと受け入れてくれる。(諦観)



こんなことがさらり、とニュースで流されています。

これはもう馬鹿にされている以前の話です。

四季のある日本では、「夏」が過ぎて「秋」が来ればもう「夏」のクソ暑い日々など覚えていられないのです。

これはもう日本人の体にしみ込んだ、ぬぐえない「くせ」なのだと思います。不祥事を起こした政治家がなぜか「2ヶ月後」にまた再び現れるのも、もうお気づきだと思います。

体に染みついたこの習性のおかげで、僕たちは「実は炉心融解していた(その定義がどうであれ)」と75日後に言われれば、

「やっぱりね」と思ってしまう。

(75日×4(四季)=300日、間に2週間(衣替え)を足し算すれば300+14×4=356日=約一年)

それを受け入れてしまう恐ろしさ。これは海外に出て初めて心の底から実感しました。

僕がシンガポールに来た3月下旬は(たまたまなのだが)、ドミトリーは日本から逃げてきた外国人に会いました。

暴動も起こさず情報の拡散化を図った、という意味では、変な意味だけれど、この「75日後」政策は評価されるのかもしれない。



日本の将来を考えずにはいられません。


大切なことが、どうしてTVで報道されないのでしょうか。

北朝鮮の報道を笑っている我々の後ろに、我々を笑っている人達がいるのかもしれません。

自分の子供が、孫が、外部放射線被ばくをしながら、内部被ばくと闘いながら生きていくのでしょうか。


2011年5月23日参議院行政監視委員会における小出裕章氏の発言



学者生命を賭けた、掛け値なしの言葉です。

kanfu panda 2

仕事帰りに見に行きました。

結構面白かった。

中国語字幕が必ず付いています。

2011年5月24日火曜日

舵取り

舵取りがいて船が進む。

舵取りが、どちらの方向に行くか示すこともなく

「がんばれ」と言い続ける。

そう、がんばれないのである。

ついでに舵取りは

「がんばればがんばるほど、もらえる飯が増えるぞ」という。

その通りなのだが、、、。

ついでくれる飯の量は確かに増えた。

一度てんこ盛りになった山盛り飯から、他の人のためにと、またお釜に半分以上戻された。

文句を言うと

「結果的には、他の人よりたくさんもらっているのだから、文句を言うな」と言われた。

「じゃあ頑張る意味がないじゃないか」というと

「がんばれ」

と言われた。

この船は駄目かもしれないと思った。

 
 
 
 

ドミトリー

2011年3月末にドミトリーで知り合った友達と再合流いたしました。

IONでお茶をしながらしばし歓談。

お互い「仕事が見つかるといいね」と言っていたような、そんな状態でドミトリーにいたものだから、二人とも就職している(まだ僕はしていないけど)のがとてもうれしかったです。

「何しているの」と聞いてみるとどうやら希望通り金融関係の投資会社に勤めることになったようです。600人の中から選ばれたとのこと、やはりタダものではない。中国から来てオーストラリアで教育を受けているので、もう完全に欧米人。

「中華大革命でむちゃくちゃになったよー」と平然という中華系の若者を見て、カルチャーショックを受けました。

日本にいるときよく「中国は、、」「中国はいつも、、、」「中国はねぇ、、」で始まる会話をよく聞いたけど、この文革の前の話なのか、後の話なのかがすごく重要であることがわかりました。まがりなりにも儒教国家であり続けた中国が、どうしてこれほど「ルール」を無視すすることができる素地が形成されたのか。私も反省しています。中国系とほとんど話をすることもなく、「中国は、、、」などとメディアの言うとおり議論していたのが恥ずかしい。

ともかく、好青年の彼と楽しく時間を過ごしました。ちなみに面接試験ってどんなことを聞かれるの、と尋ねてみると「くだらないものもたくさんあるよ」と。

一つ教えてくれと聞きました。

「例えばね、『ピンポン玉があります。ジャンボジェット機にいくつ詰め込めるでしょうか』とか」

・・・・・。見当もつかない。どうやら、結果ではなく、どう考えたかが試されるようだ。カーゴを考慮にいれたか、ピンポン玉は球体でピンポン玉間にできてしまう空間を考慮に入れたか、おおむね何を基準に考えたか(例:ジャンボジェットに乗るだろう人間の数から換算等)。日ごろの医療から離れた会話だったのでとても楽しかったです。

ちなみにIONは「イオン」ではなく、「アイオン」と発音しています。もちろん日本の「イオン」です。ユニクロも日本食も何もかもあります。高島屋にいけば紀伊国屋も入っているので、お金に余裕のある人は、日本と何変わらず生活できます。

津波・地震・放射線被ばくということもあり、一時は食料品売り場等人が少なくなっていたようですが、今はそれなりに盛り返しているようです。ただこれを「風評被害」と表現できるのかどうか疑問になってきました。。。。

ION Orchard

 
 
 
 

2011年5月22日日曜日

SMS me

時代とともに英語のありようが変わることを初めて実感した単語。

「SMS me!!」である。

最初なんのことかわからなかった。かかってきた電話にいつもそう答えている同僚がいた。その後メールが届く。つまり「ショートメールで連絡してくれ」と言っているのだ。

一昔前は
「Page me」だったのに、まあ携帯が普及したことでSMSになったのだろう。

患者の相談も、いわゆる「Blue letter」もそうやってSMSされていく。

時代はかわるものだ。

ただ、TELよりも、言った言わないが少ないので医療には向いていると思った。ちなみに機種とかは関係なく誰とでもできます。携帯番号があれば。

SMSとは
ショートメッセージサービス「Wikipedia」



 
 
 

アバター

今更ながらアバター。DVD購入しフル字幕で鑑賞。
やっぱり面白いです。アバターが神田うのさんに見えて仕方がなかったです。

2011年5月18日水曜日

difficult situations

回診を回っていて、どうして聞き取りにくいのだろうと思っていたのがほんの数週間前。当たり前なのです。言語は対面でないと、限りなく言語明瞭度が落ちるのです。

英語の聞き取りにくい状況

1)後ろから聞く(回診の後ろ)

2)まったく関連のない話をされる

3)電話

電話がまた強烈に難しいですね。

はぁ

2011年5月17日火曜日

BBC/ Planet Earth

BBCが発行している「Planet Earth」をDVDで見た。

TOEFLを受ける人には最高の教科書DVDでしょう、まず間違いなく。

針葉樹林、広葉樹林、落葉樹林、両生類、爬虫類、密漁、化石、絶滅危惧種、等々。

上記の一つでも英語ですぐ出てこなければ、購入!!!

掛け値なしにいいDVDでした。むしろ、これみてTOEFLのテスト作っているのでは??というシーンまであり(とくに洞窟の鍾乳石、石筍形成過程など。もろそのものが文章になって出ていました)。

とくに最後の4枚目で語られる「Animals at the edge of extinction」についてが非常に参考になります。私は何度もここだけを覚えるぐらい聞きました。TOEFLで聞きなれない単語のかなりがこれらDVDの中で使われています。TOEFL100点には一度は眼を通しておきたいDVDの紹介でした。


2011年5月15日日曜日

TIME/ BIN LADEN




TIMEがBIN LADENに対する特集号を組んでいる。非常に印象的な表紙。顔写真に朱色のバツがつけられている。その表紙がすべてを物語る。存在の否定。

 かつてTIMEでこの「朱色のバツ」をつけられた人物はビンラディンを含め4人いる。ビンラディンは4人目ということになる。

2011年5月1日、イスラム教を信じる父を持つバラク・フセイン・オバマ大統領が演説する。

「 Justic has been done」

なんというIronicalでsynonymicalなことだろうと思う。ObamaとOsama。かつては、いや今もだけれど、隠れイスラムではないかと言われているこの人物が、世界でもっとも大きな国家のひとつであるアメリカ合衆国を代表しているとは。初のBlack Americanである大統領が支持した歴史的作戦。それがこのオサマ・ビン・ラディン殺害だったのだ。

くしくも66年前の5月1日、ある人物の死が世界中を駆け巡っている。それはだれもが知る人物で、evilの代表として今も映画等で描かれ、非難され、ある場所においては崇拝的尊敬を受けている人物。近現代史を学んだものなら知らぬもののない名が挙げられ、人々はそのcoincidenceに息をのむことだろう。

アドルフ・ヒトラーである。

ナチズム=ヒトラー、ビンラディン=テロリズムの構図の中で、誰もがその死亡ニュースの偶然性に驚く。でも本当にそうだろうか。

歴史は動かせない。動かせるのは未来。テロリズム、ナチズムの構図を嫌がうえでも思いだしてしまうこの5月1日という偶然性は、はたして偶然なのだろうか。

もし意図的に5月1日を選んだとしたら、僕はそのsupervisior, conductorのintelligenceの深遠さに敬服せざるを得ない。ここまで人々の深層に食い込んだヒトラを、死亡の日からだけでremind ofさせてしまう、その蓋然性の構築を、誰がしたにせよ、緻密なからくり時計の中を覗くようで、もう感服の一言である。(実際はヒトラーは4月30日の自殺であり、報道されたのが5月1日ということなのだが)。

いずれ時が過ぎ、この、あるいは意図性のある日付も、意図さえ忘れさられ、不安と不穏に満ちたミステリアスすぎる2人の関連性に、人々は不思議さを感じ始めるのだろうか。

1年後、10年後、そしてこれから毎年5月1日になると、その日の出来事欄には「ビンラディンの死亡ニュース」「ヒトラーの死亡ニュース」と並び続けるのだ。これから永遠に。
 なんとよくできたプロットなのだろう。多くの血が流れ、悲劇が起こり、遺族が生まれたこの戦い、アメリカ史においてベトナム戦争を越える最も長いアルカイダとの戦争は、まるでシェイクスピア劇を見ているかのごとく、カタルシスさえ感じてしまうほどのエンディングが用意されていたのだから。感嘆の言葉すら忘れてしまう。



TIMEにCross markをつけられたのはTIMEの歴史上4人しかいないと最初に述べた。では栄えある一人目は誰なのだろうか。1945年5月7日のTIMEの表紙に、赤いCross markですべてを否定された人物とは。1945年地下壕で結婚式を挙げ、服毒自殺した人物とは。1970年に遺体が秘密裏に掘り起こされ、遺体安置所がNeonatismの聖地とならぬよう、エルベ川にソビエトにより散骨された人物とは。それはまるでビン・ラディンと同じ水葬のように。


TIMEで最初にCross markを受けたのは、誰あろう、アドルフ・ヒトラーその人であった。
なんという偶然なのだろう。不自然なほど多い共通性の符号に、今は疑問を抱いたとしても、いつか「歴史の不可思議な偶然性」と語られていくのだろうか。きっといくのだろう。

歴史には常に、ことのほか卓越したストーリーテラーがいるのかもしれない。かの人は舞台監督となり、民衆にカタルシスを与えてくれる。

気になることがひとつ。

この物語には、続きがあるのだろうか。







ジョホールバルの行き方(Bus編)/TOEFL

TOEFLを受けにJB(ジョホールバル)に行ってきました。シンガポールでなぜ受けなかったかと言うと、すでに満員であり、登録できなかったからです。
幾人かのシンガポール人に

「JBは強盗とか殺人とかあるから気をつけてね」と言われました。ホントかな、と思いつつ、いつもの「アジア」に行くときの思考に変更する必要があることに気付きました。シンガポールは小さな「大都会」なので、お金を落とそうがすぐそばにいる人が注意してくれます。本当に安全な国です(というと、何もしても安全、と勘違いする人がいますがあくまで『比較』の問題ですので)。

ではSingaporeからどうやってJBに行くか。あくまで参考としてお読みください。

私は「バス」を選びました。その理由は、一番安く、確実だと思ったからです。シンガポール側のバス停はいくつかあるようですが、もっとも有名なバス停の一つが「Bugis」のバス停から乗る方法です。ネットにバス停の地図がありますので、参考にしてみてください。

私は仕事場からの直行だったので、タクシーで行きました。7S$ぐらい。タクシーの運ちゃんに「BugisのJB行きのバス乗り場」とだけ言えば「OK」と連れて行ってくれました。たぶんよく知られている場所なんだと思います。MRTからは少し歩くようです。暑い中歩くのは大変ですが、道を間違わなければMRTからはすぐです。

Terminalの参考HP:「Singapore Queen Street (JB Terminal)

そこでJB行きのバスが何台かあります。Singapore側のバスとMalaysia側のバスがありました。売り場は2つありどちらで買ってもOKです(どちらで買うかでどの国のバスに乗るかが決まるようです)。これらの情報はすべてタクシーの運ちゃんから教えてもらいました(いつもそうしてます)。

「トュー、フィフティ」と言われたので、聞き間違えて25S$かと思ったら「2.5S$」でした。タクシー代より安い!!!
指定されたバスに乗車。思ったよりも狭い。Bugisから高速道を乗り国境へ。隣のお兄さんに「どれぐらいかかるの」と聞いたところ「depends on the crowdness of the immigration」とのこと。国境でバスが止まる。
 人だけおろされて下車。バスはそのまま出国管理のゲートへ。Immigrationは空港と比較し簡便。すぐさまエスカレータを降りてバスへ。でも、どこへいけばいいのか??乗ってたバスは??

そのあたりがよくわからなかったので、事前にバスに同乗していた目立つ人達を数人チェック済み。彼らの後をついていく。するとCWだかの列へ。ついでにバスの特徴も覚えておきました(色はあまり効果なさそう。どれも似ているから。私は運転手の趣味でつけているフロントガラスの飾り物を目印にしていました)。私が乗った途端バス発車。というか、発車しようとしていた。まぁ、乗り遅れても次のに乗れるそうですので(ネットで確認情報ですので鵜呑みにはしないでください)。

またバスに乗り数十分。今度はJBSentralへ到着。皆吸い込まれる様にエスカレータへ。みなものの数十秒でイミグレを通過していく。さあ僕の番。。。。。止められた。

「White card??」

しまった、申告書を書いていなかった。横により記入。その後入国。

とまぁ、こんな感じです。簡単です。

帰りはJBSentralからビル同士をつなぐ連結橋からイミグレへ。少し迷いました。実は一階の地方バスに迷い込んでしまいました。一番信頼できそうな人に聞いて間違いに気付きました。

帰りの入国審査(シンガポール側)だけなぜか金属チェックがありました。行きはなかったのに。。。。シンガポールらしいといえばらしいですね。

 JBのTOEFL会場は今まで受けた会場の中でも最高峰のひとつでしょう。テストの初めに簡単にbriefingがあって「Speakingで大きな声を出し周囲を邪魔した人には警告があります。それを守らない人はTOEFLオフィシャルに報告します」とありました。

・・・・となりの人がむっちゃ大きな声。。やはり注意されていました。これがあるから、TOEFLはあまり好きではありません。なんとかならないかな。IELTSも調べてみる必要があります。

2011年5月12日木曜日

電話



最後と思って前回書いたのですが、追記ということで。。

さきほどボスから電話が直接ありました。

「あさって英語の試験だろ?」

「はい」

最初誰からの電話かわかりませんでした(PrePaid mobileなので)。

「registraに色々聞いたけど、お前はできてるみたいだからtrainingはいらない」

「yes...」

「お前を雇うよ。お前は働ける。あとは英語の試験さえクリアすればSMCの基準を満たすことになるから、Crucialだぞ」

I will employ you...

仕事できなきゃ、、、firedと言われた2010年11月晩秋(シンガポールは常夏だけど)。

やっとここまで来たという感じです。

この2年間Opeのほとんどできない施設にいたので、脳内手術を繰り返していました。

今までに見た手術を思い返し、landmarkを覚え、先生方から教えていただいたtipsを頭に叩き込んでいました。数年ぶりにやったmicrovascular decompressionもとくに問題なくボスが「マイクロ」に座るまでのすべてを準備できました。専門医なら当たり前にできることなので、あまり大きな声で言えることではありませんが。

開頭しながら、あぁここでオーベンがいつも5番と7,8番の開頭の違いについて議論してたよなぁと。皮切後のmuscleをどちらに持っていくか、ドテになるから内側がいいとか議論してたなぁと思いだしました。(semi-circularなので今回はほとんど関係ないのですが)。

Clinical observerというのは、いるのかいないのかわからないような存在です。いたらOpe手伝うというような立場です。シャントのおなかばかり開けています。かの高名なZurich Universityのpast-PresidentであるY先生も「最初はshunterだった」というのを聞いたことがあります。Y先生を例に出すのも恐れ多いですが、あの先生でさえシャントをずっと担当されていたのですから、、、。一例、一例、記憶に叩き込みながらやっています。

ドレープのかけかた、この先生のやり方、毛のそり方、使う糸の種類、道具の名前(まだ満足に言えません)、ナースの癖、体位の取り方。日本とシンガポールのDouble standardsでやっています。「日本ではどう?」と聞かれたら「前の病院ではこうしていた」と答える程度にしています。まずこちらのやり方を体に叩き込みたいからです。

「病院変わって最初の6か月は『前はこうしていた』とか絶対言うなよ」


あるオーベンの名言です。この言葉の本当の意味を今かみしめています。


この病院に来て初めて杉田フレームを使い、「初めてなのか??日本人なのに」と笑われました。

杉田フレームにNavigation systemが装着されているのをシンガポールで見るにつけ、なぜか感無量となります。





 
 
 

2011年5月2日月曜日

終章

 みなさまご閲覧ありがとうございます。


日本を離れるときから思っていたことではあるのですが、このブログの継続についてです。留学までの経過を綴っていきましたが(それは決して平たんなものではありませんでしたが)、今病院で臨床を始め、違う環境の中でそれなりにやっていくことができ始めました。
 
 これもみなさんからの温かい言葉のお陰だと考えております。

日本を離れ今思っているのですが、このブログもそろそろ役目を終え始めているのではないかと感じ始めました。

このブログを通じて知り合えた多くの方々と、これからも歩んでいきたいと思います。

「シンガポール留学・臨床への道」は自己の軌跡でありますが、個人的に留学を希望される方の少しでも助けになればと続けておりました。
 現在も過去の記述が参考できますし、CVの作成や書類の用意の仕方などはある程度記載していると思います。必要な方はご参照ください。

いままでたくさんの方に訪れていただきました。本当にありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。

個人的に知り合いの方も多くいるかと思います。学会等でみかけたら気軽にお声をかけていただけましたら幸甚です。

1年間お付き合いいただきありがとうございました。

また違う形で続けることができるかもしれません。その時はまたよろしくお願いいたします。

時間だけはどなたにも平等に分け与えられています。いつ終わるかわからないという点でも平等です。シンガポールでサバイバルです。