2010年8月9日月曜日
K君
K君は23歳である。
出会った時、20歳だった。
友人の紹介で、僕の家に遊びに来て、数時間弾丸のようにしゃべり続け、夜が更けて。
マルボロを吸う彼は、視力が弱く、近くのものさえ満足に見えなかった。
そんな彼は、そのようなweak pointをものともせず、圧倒的な若さと勢いで、さまざまなことにトライし、いつも人の中心にいた。
僕はと言えば、大阪の街でプータローをしていたころなので、そんな彼がまぶしくもあり、羨ましくもあった。
大学のサークルでリーダーをし、アジアを旅行し、山登りに行き、言葉にすると単純なことだが、青春のど真ん中を生きていた。
僕が、一人暮らしの部屋で、アルバイトに行く以外部屋の外にもほとんど出ない時間を過ごしていたときに。
それから3年が過ぎ。
彼は、インドに旅立った。
バーラナシーを歩き、ブッタガヤからパトナへ。
そして、マザーテレサの家を訪ねた。
共通の友人であるT君からTELが夜中にかかってきた。
K君が戻らないという。
K君はホテルを出てから、連絡が取れなくなっているという。
しばらくすると、森の中で小屋を作って生活している、という話が入ってきた。
あいつらしいな、と僕は笑った。
友人が、たくさんの人が、彼の家に集まった。
情報が交錯し、絶望と希望が彼の家を飲み込んだ。
一緒に行くはずだった彼女が、泣いていた。
言葉のかけ方さえ、わからなかった。今なら、もっと別のことが言えたのかもしれない。
一緒に行っていれば、、、彼女の心が透けるようにわかった。
誰もが自分を責めていた。
連絡が途絶えて1カ月。
白骨化したK君が発見された。山の入り口で、金目のものは全て剥ぎ取られていたという。
ただ、
ネームタグにK君の名前が刻印されていた。
御両親がインドへ旅立った。
僕は、この日を忘れられない。
テレビのニュースで、ほんの数分、K君の名前と死亡した場所が報道された。
それだけだった。
それがK君の死だった。
僕は、大学から、彼の家まで、車を走らせた。夜の国道2号線を走りながら、僕はK君との思い出を頭に刻み込んだ。
K君は、僕がプータローをしているときから、『勉強頑張れ』と励まし続けてくれた。
何物でもない、薄汚い一間の部屋で、希望を失いかけていた僕を励まし続けた。バイト帰りに差し入れをしてくれた。
医者になれ、と心から応援してくれた。
「Kはマザーテレサの元にいったのよ」
K君のお母さんは、泣きながら、笑いながらそう僕に言った。
たくさんの時間が流れて。
僕は医者になり、それなりに働いている。
K君は23歳のまま。
K君。
あの時君にあこがれていた聾唖の女性が、結婚して子供を産んだんだよ。知ってるかい。
かわいい女の子だ。
旦那は、そう僕達の共通の友人、Tだよ。
時々君の話をする。
忘れることはない。
君のお母さんは、君のいなくなった大阪がつらいという。
もう、引越しをしているのかもしれない。
何かにつまずいたり、くじけたり、もう駄目かなと思うこともある。
そんな時、君のことや、君と過ごした時間を思い出す。
僕がなぜ、ここにいれるのか。
なぜこの場所でがんばっていられるのか。
もう一度考える。
原点に帰る。
オンボロのアパートの屋上で、朝焼けを見た日々を思い出す。
K君と話し合った夜を思い出す。
国道2号線を走るトラックの騒音にたたき起される月曜日の朝を思い出す。
K君のマルボロの煙を思い出す。
だから、諦めない。
お前の目指したアジアだ。
もうしばらくしたら、お前の最後の場所に花を添えに行こう。
ダージリン駅を降り、ホテルタワービューに泊り、チベット難民救済センターに訪れよう。
あれから12年も経ってしまった。もう少し時間をくれ。
今夜は急に、K君のことを思い出した。
今は 安らかに眠れ
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2 件のコメント:
Duke NUSで調べていてページに辿り着居た者です。
ルーマニアの事件があり、拝読したページが友人の中で話題に登りました。安全とはいえない旅行が好きな者も周囲におり、私も色々思わされました。
この記事での思いも含め、いろんな経験があり、今シンガポールに出てくる選択を取られたのかと推察します。
体調を崩しておられるようですが、ご自愛下さい。
コメントありがとうございます。
自分に示された道はこの選択なのだろうと思います。人と比べず、自分の道を歩いていくのがいいのだと思います。
あなたにも自分にしかない道があると思います。驕らず、あせらず、歩んでください。
K君のことを知っている人がいたら、連絡ください。シンガポールで一杯おごるよ、と伝えてください。
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