宮沢賢治
「告別」
おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかヾやく天の仕事もするだろう
泰西(たいせい)著名の楽人たちが
幼齢弦(ようれいげん)や鍵器(けんき)をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器(こき)と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけずられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や材というものは
ひとにとゞまるものでない
(ひとさえひとにとゞまらぬ)
云わなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもうもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ
もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光りの像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌うのだ
もし楽器がなかったら
いゝかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光りでできたパイプオルガンを弾くがいゝ
「編集王」という漫画の中に出てきた、宮沢賢治の詩。
単行本で宮沢を読もうとしても、途中で止まってしまうのだが、適切に引用されたその詩は、心をわしづかみにし、揺さぶった。
バンコクの空港で、クアラルンプール空港の片隅で。
マニラ空港の待合室で。
外国の空港で、なぜか、この詩をいつも思い出す。
才能は、少なくない人に保有されているのだ。
だがその原石は
「それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけずられたり 自分でそれをなくすのだ」
なくすのである。
磨くのをやめるのである。
僕は、人がそれをやめた瞬間、というものを見たことがある。
夢を語った友人が、立ち止まった瞬間を見たことがある。
その人が今、どうしているかわからない。
まだ、その場所でとどまっているのだろうか。そのコウベを隣の人にゆだねながら。
「ひとさえひとにとどまらぬ」のである。
蝋燭の火をともすこともせず、吹きすさぶ風から囲うこともせず、炎の消えた闇の中たたずむ人のなんと多いことか。
翻って、己は。
絶句。
非難することの、なんとたやすいことか。
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