可能性というのは、時に薄氷の上を進むがごとくになることがあります。
英語ではon the fenceというような表現をすることがあります。昨日フィリピンの友人と話をしていて思いました。オーストラリア移住、その後Googleに入社を希望しているとのことでした。その計画を聞いていて、あまりの真剣さに心打たれました。
「やれるかどうかはわからない。でも、やる価値はある」
「歳をとって、『あぁ、やればよかったなぁ』という後悔はしたくない」
まるで、自分のことを言われているかのように意気投合しました。
「So, you are , sort of on the fence」
「yeah, that's right」強く頷いていました。
フェンスに立つことは怖いことです。落ちるかもしれません。
しかし知るのです。フェンスに立つことでしか見ることができなかった風景があったと。それは出会いであり、人であり、旧知の知人の新しい姿で会ったり、風景であったり、新らしい自分であったり。
足元がぐらつくから危ないでしょという人もいます。その通りなのです。今、国というフェンスを越えています。そこにはビザがあり、医師登録があり、ポジションがあり、多くの問題があります。フェンスから元の場所に着地することもあるかもしれません。
それは意味のないことなのでしょうか。それはわかりません。戻ったじゃないかという言葉に、僕は翻ってかける言葉はないかもしれません。
ただ、フェンスを登ろうとした、あるいは乗り越えた人々と、僕はある種のものを共有することができることでしょう。この数年間で出会った素晴らしい人々との時間のように。
フィリピン人の彼がくしくもいいました。
「自分の村に学校を作りたい」
30歳を越えている彼が、英語学校で僕と出会うのです。僕は誇りに思います。それはグーグルの社員になる可能性のある青年と出会ったというよりも、その可能性を秘め、努力している姿を見ることができたことに感謝しています。
才能が磨かれている時、実は音がしています。ささやかで小さな音なので、耳を澄まさなければ聞こえてこないような、そんなか細い音です。それが彼から聞こえてきました。
そういう音は、街角のいたるところで、教科書を広げる若者から、英単語を必死で覚えている図書館のおじいちゃんから、医局の片隅で本を読んでいる友人から、何年も英会話をやっている友達から、当直室で何度もスライドを直している人から、それこそ無数の場所から聞こえてくるものです。
僕はそういうものにちゃんと耳を傾け、そういう一つ一つになれる時は力になってあげたい。それがまた自分を支える。
僕らにある可能性や才能は、すくなくとも尊敬を受けるに値するものなのだと思う。ただそのいずれも、宮沢賢治の詩のごとく、『五年のあいだにそれを大抵無くすのだ 生活のためにけずられたり 自分でそれをなくすのだ すべての才や材というものは ひとにとゞまるものでない』
原発のこともあり日本や日本人のことについて思うことはたくさんあるのですが、この「可能性」と「希望」に未来を託したいと強く願うのです。可能性に敬意を払い、それについてしっかりと話し合う。親子であれ夫婦であれ友人であれ政党であれ。
今世界中が可能性を求めあらがえないほどの大きな波をうねらせながらありとあらゆる大陸と島を駆け巡り、時に暴力的に、時に静かに、花開き、あるいは死に絶えています。可能性とはon the fenceであり、結果を担保するものではもちろんなく、そのための自分の責任が生まれます。それでもなお、自分に見合ったfenceに挑戦し、挑み、その風景を見つめている人を、心から応援したいのです。
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